これもひとえに、みなさまのおかげです。
ありがとうございます。
この感謝を胸に、白鶴がみなさまと
ともに歩んできた
歴史を振り返る
コンテンツをご用意しました。
日本酒にまつわるあれこれも合わせて
ご紹介していますので、
どうぞごゆっくりとお過ごしください。
米から生まれたお酒、日本酒。その起源は、約3000年前の日本の人々によって生み出された飲み物であるといわれています。稲作の普及とともに日本列島へと広がっていきました。五穀豊穣を祈願する際に、供物として捧げたとの記述も残されており、大切なお米でつくられた、とても貴重で神聖なものであったことがうかがえます。
当時のお米でつくられたお酒は口噛酒といい、噛んだ米を容器に貯め、自然発酵させていました。日本酒を醸造することを「醸す(かもす)」といいますが、その語源は「噛む」という言葉であるともいわれています。見た目はいまの日本酒のような、水のように澄んだ透明なお酒ではなく、濁り酒、いわゆる「どぶろく」でした。どんな味だったかの記述は、残念ながらまだ見つかっていません。
お酒づくりには、穀物や果実など糖分を含む作物が欠かせません。酵母が糖分を分解して発酵することでアルコールがつくられるためです。発酵させるという工程は同じでも、ブドウが穫れるフランスではワイン、大麦の産地ドイツではビール、そして米が主食の日本では日本酒が根付き、その国を代表するお酒となりました。
712年には、日本最古の歴史書といわれる『古事記』が書かれました。その中にはお酒が顔を出す、こんな物語も記されています。神武天皇が日本を建国するはるか昔、神々の時代の出雲の国。そこにはヤマタノオロチという恐ろしい怪物がいました。頭が八つで尾が八本、谷八つ峰八つに渡る巨体を持ち、娘を食べに、毎年ある家族のもとにやってくるのです。
嘆き悲しむ人々を見かね、怪物退治を申し出たのはスサノオノミコト、そして名脇役を務めたのがお酒でした。家の周りに垣根をつくり、八つの酒壺を用意して、そこにヤシオオリ(ヤシオリ)の酒と呼ばれる強いお酒を注ぎ、待ち構えたのです。美酒に惹きつけられたヤマタノオロチは酔っぱらい、ついつい寝入ってしまったところを、スサノオノミコトが見事討ち取りました。美味しいお酒は、怪物さえもトリコにしてしまうのです。
怪物退治に成功したスサノオノミコトは、クシナダヒメという女性を助け出し、その後結婚。出雲の国に宮殿を建て末永く暮らしたと伝えられています。
冬場は燗酒でほっこり、という方も多いのではないでしょうか。温めることで香りが立った豊かな風味は格別。日本酒を温めて楽しむ文化は、平安時代には既にあったことが分かっています。鍋に日本酒を入れ、直火で燗をつけていたそうです。
平安時代に書かれた『紫式部日記』には、時の関白であった藤原道長のこんなエピソードが。孫ができたうれしさの余り、酩酊し冗談をいって宮女たちを笑わせる場面が登場しますが、これは真冬の出来事。このときもきっと、燗酒が飲まれていたのではないでしょうか。
ひとくちに燗と言っても、その味わいは温度によって変化します。30℃前後の燗酒は日向燗と呼ばれ、ほのかに香りが立ち甘味が増します。50℃ほどの熱燗になると、味も香りもキレが増し、辛口な印象に。多くの日本酒で風味のバランスが取れる温度は、40〜45℃程度であるといわれています。お酒ごとに最適な燗の温度も変わってきますので、銘柄ごとに好みの温度を見つけていくのも楽しみ方の一つです。
初めて日本にキリスト教を伝えた、スペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエル。日本人と深い親交を結び、当時の日本に関する貴重な資料を残したザビエルは、1552年に書いた手紙で日本酒に言及しています。曰く、「関東地方は試練の土地だ。寒さが厳しくて、米の他にこれといった食料もない。お酒は米からつくったものがあるが、値段が高くて沢山は手に入らない」。日本酒が手に入りづらいことを嘆いたザビエルは、お酒好きだったのかもしれません。
ほかにもヨーロッパの商人が日本酒を「ビールよりも品質がよい」「成熟し磨かれた米と、清潔な水でつくられていて、大変よい」と褒めた記録などが残っています。飲み慣れていない西洋の人々にも、日本酒は好評だったことがうかがえます。
その他にも宣教師ジョアン・ロドリゲスは「日本は酒をあまりに多くつくるので、生産される米の三分の一は酒づくりに使われているにちがいない」と書いており、この時期の日本は酒造業が盛んであったことがよく分かります。
酒造技術が発展した中世。1566年に作成された写本が現存している『御酒之日記』には、当時の酒づくりの秘訣が、門外不出の技として記されています。 中でも目を惹くのが、「火入れ」と呼ばれる低温殺菌の記述。この時代に既に取り入れられ、日本酒の腐敗を防げるようになっていたのです。西洋で細菌学が発展し、殺菌の概念が生まれたのは19世紀ですから、そのおよそ300年も前に殺菌が施されていた日本酒は、世界で初めて衛生管理された飲み物だったのかもしれません。「火入れ」の技術は現代ではさらに進化し、(イラストにあるような)日本酒を瓶詰めしてから火入れを行う「瓶燗火入れ」が行われることもあります。 この時期にもう一つ大きな進歩を見せたのが、澄んだ日本酒をつくる技術。発酵工程を経て最後にもろみを濾過することで、澄んだお酒がつくられるようになりました。従来の濁酒に比べ、雑味を除きつつ甘味を持たせるなど、味の面でもひとつ前へ。愛飲家の武将、上杉謙信も、酒造家に澄んだ日本酒をつくらせていたことが古文書からわかっています。 折しもこの頃は、日本各地の武士が天下統一を目ざして戦に明け暮れた戦国時代。群雄割拠を生き抜く武将たちは戦意高揚のため、陣中でお酒を飲むこともあったようです。
1743年、材木商人の治兵衛が灘・御影郷(現兵庫県神戸市)で酒造業を開始。アメリカ建国に先立つこと三十余年、白鶴酒造の誕生です。日本では、目安箱を設置し民衆の声を政治に取り入れたことなどで知られる、八代将軍徳川吉宗が世を治めていました。庶民の文化が花開いた時代でもあり、俳聖として世界的にも知られる松尾芭蕉や、浮世草子と呼ばれる近代小説の人気作家であった井原西鶴、後にゴッホなど西洋の芸術家たちにも大きな影響を与えた浮世絵師の葛飾北斎などが活躍した頃でもあります。
治兵衛が酒づくりに取り組むこと4年、酒銘として名付けたのが「白鶴」でした。超然たる態度、清らかで美しい容姿、吉兆を含んだような姿である「鶴」をその名に冠することで、品質の良さを誇る酒銘として比類なきものであることを表現できると考えたと伝えられています。酒銘「白鶴」は、いまでも社名として引き継がれています。
創業当初は幕府による酒造規制の強化などに苦しめられることもありましたが、やがて酒蔵の増築や輸送作業の効率化などにより、一気に拡大。灘の酒づくりを牽引する存在となりました。
白鶴創業(1743年)の頃は、ちょうど灘が酒どころとして名を上げてきた時期でもありました。日本酒づくりに適した「六甲山系の水」、吹きおろす寒風「六甲おろし」、品質のよい「酒米」、酒づくりの名手「丹波杜氏」など酒づくりに適した条件が集まっていたおかげです。
「六甲山系の水」は鉄分が少なく、リンやカルシウム、カリウムなどが豊富な水です。ミネラルの多い水は、酒づくりに用いられる酵母の活動を活性化し、アルコールの生成が促進されるため、酒づくりに非常に適しています。
そして「六甲おろし」。六甲山の山肌を駆け下り、灘の地に吹き付けます。冬の最中でもひときわ冷たい寒風は、酒蔵の温度を低く保ち、「寒づくり(冬につくる日本酒)」に適した気候をもたらしています。空調技術の無い時代に、大切な温度調節の役割を果たしました。
そして第三の要素が「酒米」です。六甲山の麓は、昔から良質な米が育つ穀倉地帯。のちに酒米の王と呼ばれる、山田錦の一大産地となった土地でもあります。また、灘の海辺に迫る山系の急流河川を活用した水車精米により、高品質な白米を数多く得ることができたことも、質の高い灘酒を生み出すひとつの要因となりました。ここに優れた酒づくりの技術を持つ「丹波杜氏」が加わり、灘は酒どころとして、昔も今も、美味しい日本酒をつくり続けています。
灘酒が江戸で飲まれはじめたのも18世紀中頃のことです。大坂・江戸間の物流を海運業が支えていた江戸時代。海港の傍に立地する灘はその利点を活かし、江戸積酒造業で発展しました。灘から江戸への日本酒輸送の規模の大きさは、灘酒専用に「樽廻船(たるかいせん)」と呼ばれた船が作られたことからも分かります。樽廻船に積み込まれた酒樽は江戸へと到着した後、小分けにされ伝馬船と呼ばれる船にのって江戸各地に輸送されました。
高品質で味のよい灘の日本酒は、「灘の生一本」と呼ばれ江戸で大人気に。逆に、灘酒の品質を満たさず江戸に運べないようなお酒は、江戸に「下らない」お酒ということで、取るに足らないことを示す「くだらない」という言葉の語源となりました。
江戸における灘酒の人気は、「新酒番船」と呼ばれたレースを生み出しました。冬場につくられた新酒を幾隻かの樽廻船に積み込み、江戸への着順を競ったそうです。毎年開催され、その度に大盛況を博しました。見事一着となった新酒は、ご祝儀込みで高値で取引されるなど、江戸の人々の灘酒への愛は並々ならないものでした。
名釀地「灘」の興隆を支えたのが、丹波杜氏です。杜氏は、酒蔵で酒づくりに務める人々(蔵人)を束ねる役割を担います。彼らは、普段は丹波篠山の地で農業を営み、冬場になると灘へと出向き酒づくりの名手として、その腕を振るいました。
「寒づくり」と呼ばれる冬場の酒づくりは、厳しい寒さの中、早朝から深夜まで作業の続く大変な仕事でした。誠実さと勤勉さで日本随一の杜氏集団と称された丹波杜氏は、みんなで唄を歌いながらリズムを合わせ、心をひとつにして酒づくりを行ったと伝えられています。唄の内容は、労苦を癒すものやお酒の完成を祝うものなど、種々様々。歌詞からは当時の酒づくりの様子が偲ばれます。「都々逸」と呼ばれる江戸時代に流行した定型詩を用いていて、「七・七・七・五」の音数律で構成されています。
それではここで丹波杜氏の唄の一つ、「秋洗い唄」の歌詞の一部をご紹介しますので、心の三味線をかき鳴らしながらお楽しみください。
秋洗い唄
丹波杜氏は 見上げたものよ
酒も造れば 身も造る
寒や北風 今日は南風
明日は浮名のたつみ風
今日の寒さに 洗い番はどなた
可愛いや殿サの声がする
可愛いや殿サの洗い番のときは
水も湯となれ 風吹くな
(一部抜粋)
行きつけの居酒屋で一杯、幸せはこの時間。いまも多くの人が集う居酒屋ができたのは、江戸時代中期であると考えられています。酒屋でお酒を買いその場で飲むことが流行したのにともない、酒屋が店内に席を設けたり、小料理を提供したりといったことが始まり、それが居酒屋となっていきました。その場に「居ながら」にしてお酒を飲むことが「居酒」と呼ばれるようになり、「居酒屋」の名称として残ったのです。
江戸の人々は大のお酒好きだったようで、残っているお酒の取引記録によると、江戸の住民全員が毎日2合の日本酒を飲んでいたことになるとの試算も。当時の居酒屋は大層繁盛したことでしょう。
旬の料理を楽しみ、仕事の疲れを癒す。あるいは友人や同僚と楽しく語り合う居酒屋でのひとときは、江戸の頃から引き継がれた一つの文化なのです。
時代は移り変わって、明治へ。日本が西洋文明を積極的に取り入れ、文明開化を遂げた頃、ヨーロッパ各地では国際博覧会が盛り上がっていました。世界各国から様々な文化を反映させた物品が一堂に揃い、日本文化が世界に紹介される場ともなりました。浮世絵や磁器、工芸品が西洋の人々の注目を集め、後に浮世絵が西洋絵画に影響を及ぼすなど、ジャポニズムの旋風も起こりました。
日本の伝統的なお酒である日本酒を世界に広めようと考えた白鶴は、1900年開催の第5回パリ万博への参加を決定。海外向けの新規ラベルを瓶にあしらい、出品しました。折しもこの時期の白鶴は、国内においても支店を拡充し全国展開を図るなど、江戸積専業体制からの脱却を目指して販路を広げていたところ。より多くの人に白鶴の存在を知っていただくべく、西洋までも足を伸ばしたのです。それから世紀をまたぎ現在。白鶴は日本酒輸出量No.1*1ブランドへと成長することができました。
*1.日刊醸造産業速報 2023年2月13日 第17749号
よりよい酒米を求め、日本では明治時代から、稲の交配育種が進められていました。そして1923年、約20年の歳月を経て山田穂を母とし、短稈渡船を父とする山田錦が兵庫の地で生まれました。その後、現在までに多くの酒米が開発されてきましたが、山田錦は現在もなお、酒米の王者として君臨しています。
山田錦は、米粒が大きく光沢のある心白米(米粒の中央部に円形あるいは楕円形の白色不透明部分のあるもの)であるため、はぜ込み(米粒の中心部に麹菌糸が繁殖している状態)がよく、米を溶かす力の強い麹をつくるのに適しています。また、脂質やたんぱく質の含有が少ないため、山田錦を使用した日本酒は雑味が少なくなるという特長を持っています。山田錦を使用してつくられた日本酒は香味がよく、きめの細かいまろやかさを持った、いわゆる“コク”のある味わいになるといわれています。
品評会では受賞酒の列に山田錦がずらりとその名を並べ、抜群の知名度と確かな実力を示しています。店頭でどの日本酒を買おうかと棚を見回し、ついつい「山田錦」と書かれた商品を手に取る方も多いのではないでしょうか。
白鶴がつくってきたのは、日本酒だけではありません。1927年発売のハクツルサイダーをはじめ、ハクツルジンジャエールなどの清涼飲料水、焼酎やビールといった酒類、醤油やみりんといった調味料も手がけてきました。ジンジャエールはまだ珍しかった飲み物で、風邪に効く滋養にとんだ飲み物としても注目されたようです。 そのほかにも冷凍ハクツルなど、一風変わった商品も開発。営業所に冷凍庫を設置し、注文が入るたびに配達するという販売方式をとり、造ったままの新鮮な味わいを保った日本酒を提供していました。また白鶴では、 販売容器にも工夫を凝らしてきました。樽からの計り売りが一般的であった明治時代後半、白鶴の名声が高まるとともに偽造品も増加してきました。白鶴では偽造品の防止策として、当時はまだ珍しかった一升瓶での日本酒販売に着目し、早くに取り入れたのです。瓶詰めでの販売は、現在ではリサイクル可能な環境にやさしい販売方法という点で価値のあるものとなっています。
1930年代になると縦型精米機の登場により精米技術が発展。酒米をよく磨き、低温でじっくりと発酵させることで、日本酒から華やかな香りが立ち上がることが分かりました。これは日本酒の歴史を大きく変える大発見でもありました。
この香りは吟醸香と呼ばれ、後々、世の愛飲家たちをトリコに。各所の酒蔵がこぞって吟醸酒づくりに勤しむようになり、辛口でキレのよい日本酒だけでなく、甘口で香り高い日本酒も世の中に広がっていきました。
様々な香りが調和して奥深い風味を生み出す吟醸酒は、ワインの本場ヨーロッパでも高い評価を受け、「GINJO」は世界でもその価値を認識される言葉となりました。海外での人気を受けて、逆輸入の形で日本でも広まりつつあるのが、吟醸酒をワイングラスで飲む文化です。口が狭く底にかけて広がりのあるワイングラスの形状は、グラス内で日本酒の香りが広がる構造になっており、吟醸酒の華やかな香りを堪能できます。みなさんもぜひ一度、吟醸酒をワイングラスでご賞味ください。
1979年、白鶴は業界に先駆けてCI(コーポレート・アイデンティティ)を取り入れ、スローガンを「時をこえ 親しみの心をおくる」と制定し、シンボルマークを統一しました。シンボルマークは、鶴をモチーフにデザインされ、白鶴本社の看板や商品パッケージ等に現在でも使用されています。
創業時に酒銘に「白鶴」と名付けて以来、鶴はこれまでもラベルやポスターに登場し、白鶴とともに歩み続けてきました。昔から鶴は、縁起のよい生き物とされています。鶴にも様々な種類がありますが、モチーフとなったのは、「丹頂」ではないかといわれています。学名は「Grus japonensis」です。全長約140cm(羽を広げると約240cm)、体重は約7〜10kgで、北海道には野生の丹頂が生息しています。赤い頭頂部が大きな特徴で、白い羽は雪よりも美しいといわれます。
歴代のラベルは現在、白鶴酒造資料館でご覧いただけます。他にも白鶴の酒づくりの根本を体感いただける展示がございますので、お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
1984年には、現在でもたくさんの人に親しまれている日本酒「まる」の販売を開始。赤の背景に力強い筆文字で書かれた円のパッケージは、販売当初から受け継がれています。軽快な口当たりとふくらみのある味わいの絶妙なバランスをご評価いただき、「白鶴 サケパック まる 2L」は平成で最も飲まれた日本酒となりました*1。
冷やしても燗をつけても美味しい、定番の日本酒。「辛口」「純米酒」もラインナップに加わり、様々なシーン、幅広い料理とともに美味しくお楽しみいただけます。いつも変わらぬ美味しさは、独自開発した酵母、厳しい品質基準などのたくさんのこだわりがしっかりと支えています。
紙パックでの販売を始めたことも、発売当初は画期的な試みでした。割れる心配もなく、持ち運びしやすいというだけでなく、リサイクル可能な容器であることも時代の声に耳を傾けた商品開発の成果でした。
「麹花が咲く」という言葉があります。これは、日本酒づくりの過程で酒米が麹を身にまとう様を表現したもの。蒸した酒米に種麹をふりかけ、成長した麹菌が胞子を形成した際に花のように見えるのです。この麹の働きによって、酒米のデンプンは糖へとかわり、その後酵母が糖を分解してアルコールをつくります。この工程はアルコール発酵と呼ばれ、ここで使われる酵母の種類が日本酒の風味に大きな影響を及ぼします。そのためよりよい酒づくりのためには、水や酒米だけでなく、酵母や麹の探究が欠かせません。
白鶴はバイオテクノロジーを軸とした科学的な知見をもとに、日本酒づくりに取り組んでいます。これまでに400種類を超える酵母を開発するなど、発酵技術の研鑽を積んできました。その結果、1988年の生物工学会奨励賞受賞をはじめ、バイオテクノロジーの分野で様々な功績が認められてきました。 そしてその研究の成果を日本酒の味に結実させるのが、蔵人たちのもつ繊細な技術。蒸し上がった酒米に種麹をムラなく振りかける「種切り」では、蔵人たちが呼吸を整え作業を行い、部屋には緊迫した空気が流れます。伝統的な手法と革新的な技術の両輪で、美味しい日本酒がつくられているのです。
かつて日本酒は、国税庁の酒類審議会による官能検査の審査のもと、色合いや風味のよいものから順に「特級」「一級」といった級別の分類がされていました。しかしながら、日本酒のつくり方が多様化したことから、1992年からは「純米大吟醸酒」「本醸造酒」といった原料と精米歩合による分類に変更され、お酒の特徴とつくりへのこだわりがより分かりやすくなりました。 原料に米と米麹のみを用いたものは「純米」と銘打たれ、酒米をよく磨いた日本酒には「吟醸」「大吟醸」と付けられます。これらを組み合わせて「純米吟醸酒」のように、お酒の種類が決まります。 しかしながらお酒えらびの指標となる精米歩合も、美味しさを決めるすべてではありません。例えば同じ精米歩合でも、酵母の違いやつくり方の違いなどで、華やかな香りがするものや、しっかりとした味わいのお酒があるように、それぞれのお酒に個性と美味しさがあります。多種多様な日本酒の風味に思いを馳せながら、今晩の一杯を選んでみてはいかがでしょうか。
白鶴は、酒米の開発にも取り組んでいます。2003年には「山田錦に勝るとも劣らない酒米を生み出す」という志のもと、山田錦の兄弟品種である「白鶴錦」を自社開発しました。酒米の王である山田錦と比較しても大粒で雑味成分の少ない酒米です。白鶴が持つ酒づくりの粋を結集させた「天空」をはじめ、白鶴の多くのお酒にこの白鶴錦が使われています。
酒米の自社生産にもこだわり、2015年に白鶴ファームを設立。灘と同じ兵庫県に位置する丹波篠山の地(丹波杜氏発祥の地)で、白鶴錦をはじめとする酒米の自社生産を開始しました。山に囲まれた丹波篠山の盆地は寒暖差が大きく、米づくりには最適。冬場に酒蔵で酒づくりを担う蔵人の中には 、春から秋にかけてオタマジャクシやトンボに囲まれながら、この地で米を育てる者もいます。
一本の苗から一杯の日本酒まで。白鶴の蔵人たちは一年にわたる酒造工程のすべてに関わり、日本酒づくりに取り組んでいます。
2013年には、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されました。自然の恵みを尊重し、人々の慣習に根差した料理として世界に認められた和食。そのかたわらには昔から日本酒の存在がありました。
和食と日本酒の相性のよさの秘訣となるのが、旨味の存在。甘味、苦味、酸味、塩味に続く第五の味といわれる旨味は和食にも日本酒にも含まれており、和食と日本酒の味の調和を支えています。旨味は日本の味覚から世界の味覚へとなりつつあり、1985年には旨味の国際シンポジウムが開かれ、「UMAMI」は正式な学術用語としても認められました。
食中酒として特に人気なのが灘酒です。調和のとれた味わいと、後を引かないキレのよさが、食事の味を引き立ててくれます。特に、魚料理との相性は抜群です。お好みの料理に合う一杯を、みなさんもぜひ探してみてください。
2015年、白鶴は「天空」を発売。春に始まる米づくりから冬の醸造まで、一年にわたりこだわり抜いてつくられた純米大吟醸酒です。伝統の製法と最新の技術、それぞれのよいところを用い、人の手によって真摯に育て上げています。酒づくりを原点から見つめ直し、できるすべてを注ぎ込むことで、白鶴の「伝統と革新」を象徴する商品に仕上がりました。
その酒づくりの最後を飾る工程である、「袋吊り」は、贅の極みといえます。醪(もろみ)を圧搾せずに自重により酒を一滴一滴、時間をかけて搾り取り、鶴の首の形を写し取った端麗な瓶に封じ込めています。海外の品評会でも数多くの賞を受賞し、世界で注目される日本酒となっています。
2023年、白鶴は創業280周年を迎えました。ありがとうございます。日本酒という文化、日本酒を育む風土を大切に育てながら、白鶴は新しい取り組みをこれからも続けていきます。
2019年には、二つの新商品を発売。一つ目が「新しい日本酒の世界を覗こう」というキーワードを掲げ、若手社員が中心となり開発した「別鶴」シリーズです。フルーティな味わいと心地よい酸味、樽香の余韻で日本酒業界に新風を吹き込みました。
そしてもう一つが「Hakutsuru Blanc」。ワイン用酵母と日本酒用酵母を掛け合わせた(交配した)ハイブリッド酵母により、通常の日本酒にはない爽やかでフローラルな香りが楽しめるようになりました。日本酒の可能性を大きく広げる商品です。
白鶴は創業以来、日本酒と過ごすひとときを多くの方に楽しんでいただきたいと思い、酒づくりに取り組んできました。その甲斐あってか、いまでは日本国内だけでなく世界中の人に飲んでいただけるようになってきました。ご愛飲いただいているみなさま、まだ出逢えていない方々、これらの白鶴にどうぞご期待ください。
最後までお付き合いいただき
ありがとうございました。
日本酒の歴史とともに振り返った、
白鶴の280年はいかがでしたでしょうか。
このあとは、どうぞ白鶴の
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新しい物語が始まっています。
白鶴は、時代をこえて、
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イラストレーション
大庫真理
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